四国・高松で、江戸とタイを感じる!

縁結び工房は、アジアと日本の伝統文化のご縁を結ぶ場所です。また、茶道からつながる世界をお届けします。

先日、四国は香川県・高松に行って来ました。
勉強不足で、これまで高松のことをよく知らなかったのですが、茶道に縁のある人にとって、高松は行くべき場所の一つであったのだなぁと感じ入りました。

知っていたことといえば、明治の初めにできた菓子屋さんに『木守』という菓子があることくらいでしょうか。
なぜその菓子を知っていたかというと、愛読書である『一日一菓』という、茶人・木村宗慎先生の書籍で紹介されていたからです。

このご本には「一年間三六五日、菓子と器をかえ」、その日その日に相応しい和菓子について、銘菓である所以や、なぜそれをその日に選んだのか、器との関係はどうなのかなど、木村先生による解説が付されています。文章はもちろん、写真も美しく、何度見ても見飽きることはありません。読めば読むほど、見れば見るほど、木村先生に対する尊敬の念が深まっていきます。

以前、仕事で高松に行くという友人がいたので、その菓子屋さん『三友堂』を勧めたことがあります。高松から戻った友人は、「確かに、老舗って感じのするお店でしたよ」と言いながら、銘菓『木守』をお土産にくれたのでした。

前置きが長くなりましたが、今回、期せずして高松に行くことになり、念願叶って『三友堂』さんにうかがうことができました。外観は、予想に反して現代的な作りでしたが、中に入ると印象ががらりと変わり、想像していた通りの、趣のある ‘The老舗’ な和菓子屋さんでした。

生菓子も干菓子も美しく、目移りしてしまいましたが、旅の途中ということもあり、持ち運びと日持ちを考慮して、当初の目的である『木守』と、別日に『一日一菓』に掲載されている『木守柿』と、『菓子弁当』という求肥の菓子を求めました。

和三盆糖の御国ですから、砂糖が美味しいのでしょう。どれも、優しい味わいの、美味しい菓子でございました。

そしてこの『三友堂』さんですが、明治五年の創業だそうです。時代が江戸から明治に移り、高松藩が廃藩となったため、武士仲間三人が集まって、高松城下で菓子屋を営むことになったのが始まりとのこと。

高松市内には、江戸時代に高松藩の藩主であった松平家の居城『高松城』跡や、松平家の下屋敷であった『栗林公園』など、江戸の名残を感じる場所が残っています。

市内を散策しながら、『三友堂』を立ち上げた三人の武士たちに思いを馳せました。幕末からの動乱の時代に、嘆いたり、将来を悲観したりすることもあったかもしれません。そんな中、刀を置き、商売で身を立てていこうとした決意に心を動かされます。

栗林公園内には、いくつかの茶室があります。

『うどん県旅ネット』によれば、『旧日暮亭』は、1700年前後に建てられた江戸時代初期の大名茶室の様式を今に伝える建物だそうで、三千家の一つ、武者小路千家が誕生した頃の造りともいわれているそうです。

ちなみに、武者小路千家は、代々、高松藩主松平家の茶頭を務めてきました。その縁で、武者小路千家に伝わる長次郎作の名碗『木守』が松平家に献上されたそうです。
先の『三友堂』さんの菓子『木守』は、この茶碗にちなんで作られたものです。表面の渦のような焼き印は、茶碗の高台を表しているそうです。
残念ながら、茶碗の『木守』は、運悪く関東大震災に遭い壊れてしまいましたが、菓子の形で歴史を伝え続けていることは救いのように思われます。

入園時にいただけるパンフレットによれば、『日暮亭』は、明治初期に建てられた石州流の茶室で、中には5つも茶室があるそうです。

『掬月亭』は、園内のどこからでも出入りができるよう、四方に正面がある数寄屋造りの建物ということですが、冷たいお抹茶をいただき、中を拝見させていただくと、確かに、意外なところに露地があり、蹲のようなものがありました。「あれ、もしかして腰掛待合!?」と驚かされる石の配列も見受けられました。

話はがらりと変わるのですが、高松は、江戸だけではなく、東南アジアのタイをも感じさせてくれる場所でした。
港の桟橋には、おしゃれなレストランがあり、海を感じながら食事をすることができます。
あちこちの島に向かうフェリーや高速船があり、気軽に短時間の船旅を楽しむことができます。
東京では水を近くに感じることがなかなかできないのですが、ここ高松では、タイに居たときと同じように、水を身近に感じることができました。

フェリーで、高松港から1時間の直島に行ってみました。草間彌生さんの『赤かぼちゃ』が出迎えてくれます。中にも入ることができます。まるで、躙り口から茶室に入るかのようです。
ここでお茶会ができたら、とっても素敵だと思いませんか!?

東南アジアの織物や工芸品を使った