神社仏閣を巡り、歩き、登る秋(1)【旅する茶籠・筥崎宮 編】

縁結び工房は、アジアと日本の伝統文化のご縁を結ぶ場所です。また、茶道からつながる世界をお届けします。

複数の事情が重なり、福岡・大分の旅に出ることになりました。
この機会に、今まで詣でたことのない神社やお寺、利休さんに縁のある場所などを訪ねることに。

最初に向かったのは、「利休釜掛の松」のある九州大学医学部。
福岡市営地下鉄の「馬出九大病院前(まいだしきゅうだいびょういんまえ)」という長い名前の駅で降り、大学の敷地内を歩いて行くと、その場所があります。

天正15年(=1587年)6月、九州平定を終えた豊臣秀吉は、三大八幡宮の一つである『筥崎宮』に20日間ほど滞在しました。秀吉に伴われて博多入りした利休は、博多の豪商・神屋宗湛らを招いて、何度か茶会を催します。

そしてまた、箱崎に滞在中、利休は、現在は九州大学医学部の敷地にある箱崎浜・千代松原の松に鎖を掛け、釜をつるし、松葉で火おこして湯を沸かし、秀吉らに茶を点てたとのこと。
この茶会が、日本初の野点(ということは、世界初の野点と言えるでしょうか?)と言われているそうです。ということで、この地が『野点発祥の地』と言われます。

確かに、「北野大茶会」は九州から戻った1587年の10月に催され、利休さんが旅箪笥を持ち秀吉に従って小田原に行った「小田原攻め」は1590年ですので、箱崎浜での野点が、最初の野点だったのかもしれません。

当然ながら、私もここで野点がしたくなりましたが、他人様の敷地内ですので断念し、筥崎宮に移動することにしました。

筥崎宮は、三韓征伐のシンボル的存在である神功皇后が祭神であり、また、1274年の蒙古襲来のおり、日本側が、博多湾に上陸した蒙古軍に打ち勝ったことから、厄除け・勝運の神様として有名だそうです。
勝運の神様である筥崎宮は、秀吉を初め、名だたる武将が参詣した神社です。

一ノ鳥居は、江戸時代に入ってから、福岡藩初代藩主の黒田長政(黒田官兵衛=孝高・如水の息子)が建立。
楼閣は、戦国武将・小早川隆景が建立。幾度かの消失の後、現在の本殿は、戦国武将・大内義隆が建立。

そして、箱崎茶会に随行していた利休は、石燈籠を奉納。これら全てが、国指定の重要文化財です。

利休奉納の石燈籠は、放生会と、さつき大祭期間中しか拝見できないそうですが、楼閣の扉の開いたところから本殿を覗いてみると、右奥にそれらしきものを確認することができました。

筥崎宮の敷地は、東西に細く、長く、伸びています。歩道が砂地になっている参道を1km弱くらい海の方向に歩いていくと、西の端にお潮井浜があります。この浜は、特別な行事の時しか入れないそうで、野点をしたいのですが、これまた簡単には適した場所がみつかりません。

(お潮井浜は、道路の向こうです。塀に閉ざされています)

しつこく場所を探そうとする私に、同行者が「あきらめて大宰府に行こう!」と強く言うので、従うことにしました。
野点発祥の地で、野点できず!残念です。

ちなみに、利休さんの箱崎での様子は、山田芳裕氏著の『へうげもの』(ごめんなさい!何巻目に入っていたか忘れました)や、

森恭彦氏著(淡交社)の『茶道史ゆかりの地を歩く』などに書(描)かれています。

東南アジアの織物や工芸品を使った